1915年11月20日三重県生まれ。
33年に京都J.O.スタジオ(東宝の前身)にアニメーターとして入社。企画、脚本、作画、撮影、編集を学び短編アニメ「新説カチカチ山」(36)を監督。その後、助監督部に転籍し上京。45年に短編人形劇「娘道成寺」を監督するが、GHQの事前検閲制度の為未公開となる。
48年、新東宝の「花ひらく」で監督デビュー。同年、和田夏十と結婚。
51年に東宝に移り、「結婚行進曲」(51)、「足にさわった女」(52)、「プーサン」(53)など、大胆な実験精神を発揮し、都会的センスに満ちた社会風刺コメディーなどを手掛け評価を得る。55年に日活に移籍して監督した「ビルマの竪琴」(56)で、ヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞。その後56年に大映に移り、「炎上」(58)、「鍵」(59)(カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞)、「野火」(59)、「おとうと」(60)(カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞受賞)、「黒い十人の女」(61)、「雪之丞変化」(63)など、多彩で鋭い映像感覚の名作、話題作を連発する。
65年の「東京オリンピック」(カンヌ国際映画祭国際批評家協会賞〈UNICRIT賞〉受賞)で、その名を世界に知らしめる。69年、低迷する映画界に一石を投じるべく、黒澤明、木下惠介、小林正樹と『四騎の会』を結成。73年には、初の独立プロ作品「股旅」を製作、監督する。草創期からその可能性を追求して来たテレビ作品でも、「木枯し紋次郎」シリーズ(72〜73)が一大人気を博す。
76年、角川映画第一作の「犬神家の一族」、それに続く金田一シリーズが爆発的ヒットとなり、変化する映画界の前線で活躍する。その後も、「細雪」(83)、「おはん」(84)、「四十七人の刺客」(94)、「八つ墓村」(96)、「新選組」(2000)、「どら平太」(2000)等、精力的に作品を発表。自作の再映画化にも挑み、「ビルマの竪琴」(85)、「犬神家の一族」(2006)では、新たな世代の観客を獲得する。
82年紫綬褒章受章。88年勲四等旭日小綬章受章。94年文化功労者となる。2008年正四位受位、併せて旭日重光章受章。
2008年2月13日、92歳で死去。75年に渡る生涯現役の映画人生であった。
1920年9月13日兵庫県生まれ。
本名:市川由美子。東京女子大学英語専攻部を卒業し、通訳として勤めていた東京都世田谷区砧の東宝撮影所にて市川崑と出会う。
48年「花ひらく」で市川崑が監督デビューを果たすのを待って、市川崑と結婚。
市川崑の脚本を手伝ったことから、49年に市川崑監督作品「人間模様」、「果てしなき情熱」で、市川崑との共同ペンネーム『和田夏十』の名前を用い脚本家としてのキャリアをスタートさせる。
51年の「恋人」から『和田夏十』を単独のペンネームとする。以後、35本の市川崑作品の脚本を執筆し、市川作品に多大な貢献を果たす。「プーサン」(53)、「ビルマの竪琴」(56)、「炎上」(58)、「野火」(59)、「破戒」(62)、「私は二歳」(62)、「太平洋ひとりぼっち」(63)などでは、文芸書、ベストセラー小説、漫画、エッセー、育児書等々の多様な原作に取り組み、独自の視点で原作者の精神、主題に迫る。また、「満員電車」(57)、「穴」(57)、「黒い十人の女」(61)などでは、個性際立たつオリジナル脚本で評価を得る。「ビルマの竪琴」などで、数多くの賞を受賞。
妻であり一男一女の母でもある和田は、書斎を持たず、居間や台所や応接室などで、家事の合間合間に脚本を執筆するという生活スタイルを貫いた。
57年の「東北の神武たち」から、市川崑との共同ペンネーム『久里子亭』も使用。
市川崑の代表作の一つとなった「東京オリンピック」(65)の脚本を最後に事実上脚本家を引退するが、その後も、部分的な脚本の執筆や貴重なサゼッション等で市川作品を支え続ける。
市川崑演出のテレビドラマ「木枯し紋次郎」(72〜73)の主題歌「だれかが風の中で」、「丹下左膳」(74〜75)主題歌「かげろうの唄」の作詞も手掛ける。
市川崑作品以外の脚本は、西山正輝監督「江戸は青空」(58)(01年に市川崑が「かあちゃん」として再映画化)、田中絹代監督「流転の王妃」(60)、増村保造監督「足にさわった女」(60)。
83年2月18日、62歳で死去。
著書に『成城町271番地』(市川崑共著:白樺書房)、『和田夏十の本』(谷川俊太郎編:晶文社)。