―― 大映時代、藤井さんが、市川監督と組んだ作品ですが…。
一番最初は、「穴」からですね。結構本数やっているんですよ。「ぼんち」ってのは京都(大映京都)でやっているでしょ。だからタイトルには載ってないけれど、実際はやっている。
―― 「ぼんち」にお名前がないのは、大映京都だからなんですね。
そうです、そうです。「破戒」(大映京都)、「雪之丞変化」(大映京都)はタイトルに載ってますけどね。
「太平洋ひとりぼっち」(石原プロ、日活)、これは、裕次郎さんのやつですけど、僕は大映に内緒で手伝っていた。
―― 最初、大映が原作権を買っていたそうですね。
大映がいち早く権利を買っていたんですよ。堀江謙一さんがサンフランシスコへ着いて、ニュースがパーッと入ってきたでしょ。それをその日に、大映がアメリカに電話して原作権を買って。
―― まだ、書いていないうちから。
面白いっていうので。
その後、裕次郎さんが、市川さんでやりたいと言ってきたんですよ。それで、石原プロの旗揚げ興行ということでやりました。
―― そうすると、1957年の「穴」から1964年の「ど根性物語 銭の踊り」までの市川作品全てに関わられているのですね。
―― 市川監督は、当時の雑誌記事などで、「会社の企画もやるかぎりは自分のものにする」、「自分でいい制作条件を獲得していかなければならない」、「どこの社会にもある企業のワクを、ちょっとでも拡げる努力を、私は捨てない」と言っていますね。それと関連して、藤井さんが何かのインタビューで、「市川さんは、会社に儲けさせて、自分のやりたい企画をねじ込んで行く」というようにおしゃっていて面白いと思ったのですが、その辺の実情と当時のヒット作などを教えて下さい。
ええ、もう、ほとんどヒット作ですよ。大映に移籍しての1作目、「処刑の部屋」がまず当たっているでしょ。「日本橋」は、当たりもしたし作品が良かったし、すごいキャストでやっているでしょ。「満員電車」とか「東北の神武たち」(東宝作品)、「穴」はそれほどでもなかったけれども、「炎上」は作品がものすごく良かった。
―― 「炎上」は興行的にはどうだったのですか。
良かったですよ。その次の「あなたと私の合言葉 さようなら、今日は」、まあまあだったけど。
―― 次は「鍵」ですね。
「鍵」は、谷崎潤一郎さんの原作が、ベストセラーで有名だったんだけれども、原作を今なら渡すということを、淀長(淀川長治)さんが市川さんに教えてくれたんですよ。それで、淀長さんと、淀長さんがその頃勤めていた映画世界社の社長・橘弘一郎さんと、監督と僕と四人で、谷崎さんの熱海の家に行ったんです。あのとき、原作料いくらだったか、何百万か、それは、市川さんが、貯金を銀行で下ろして、キャッシュで持って行ったんです。大映とは関係なく、ということですよ。
それで、谷崎邸へ着いてから、ちゃんと何百万か確かめようっていうことになって、「ちょっとすみません」と、市川さんと二人でトイレに行ってね、トイレの中で数えたんですよ。銀行からきたばかりだから新札なんですよ。古いやつだとすぐなんだけれど、なかなか新札だから…。おかしかったなぁ。
それで、会社に持っていった。そうしたら、吃驚してね、「お金どうしたんだ」って。「お金は監督が払ってくれたんだ」ってね。
―― そんなことはプロデューサーとしても初体験でしたか。
僕は舞い上がっちゃって、領収書を間違えてね。お金は、税金一割引いた額を渡しているでしょ。領収書をね、その金額で書いちゃった。それで、帰ってから、谷崎さんの所へ電話して、申し訳ないけど書き直してくれって、持っていきましたよ。