―― 五十畑さんは、いつ頃から映画のカメラマンを志したのですか。
学生時代かな。もう、すごく映画が好きだった。日活、裕次郎が好きだった。東映も好きだったな。片岡千恵蔵とか、嵐寛寿郎とか、映画を観まくっていた。
―― なぜ、東宝に入られたのですか。
おふくろの弟たちが東宝の録音や照明にいた。俺は、撮影所に入るんだったら、撮影部と自分で決めていた。それに、本当に素人だけど絵が好きだった。四角いとこ、四角い画面が好きだった。中学の時は、美術の先生によく褒められていた。でも、今は描かない。己を知ったからね。
―― カメラマンは、絵心のある人が多いのでしょうか。
ないと思うよ。好きだってのはあると思う。研究している人もいる。俺なんかは、仏像を良く見に行った。写真撮ったりして陰影の勉強なんかをした。撮影所に入った時に、個人的にそういうことをしていた。恥ずかしくて同僚には話せないけどね。
最初、技術課長にガタイがいいから照明に行けと言われたけど、嫌だと言って、撮影係に入れてもらった。初めは臨時雇いで、半年ぐらいは撮影隊が出て行くときのお手伝いをしていた。当時は、7班ぐらいあったんだよ。撮影部だけで100人近かった。チーフ、トップセカンド(ウェストンでバックを計るチーフ補佐)、サード(フォーカスマン)、フォース、正規のスタッフは4人で、月に7班ぐらいが撮影していた。映画最盛期、それでも少し下火になってきた頃かな。
当時はエキストラを沢山使っていたから、朝の出発時は、行き先の違うバスが7台ぐらいあっててんてこ舞いだった。だけど、撮影部はハイヤー。ベンツ、クライスラーとかのアメ車だった。なんでかというと、当時は、ミッチェル(カメラ名)がすごく大事だった。落としたり壊したりしたら大変だった。だから、人よりカメラ、カメラの為に外車だった。だいぶ後だな、ワゴン車になったのは。ワゴン車も外車だった。東京駅では、赤帽を呼んで運んだ。1個70円、そのうち200円くらいになった。
―― 今の状況とはかなり違いますね。
そう、当時は、ロケーションの初日に仕事したことないよ。俺はオールマイティでいろいろな監督についていた。東宝は、結構監督が多くて、それとよその監督も来た、稲垣浩監督、加藤泰監督…。加藤泰は、セッタ履いていて、活動屋だよ。東宝で「日本侠花伝」を撮ることになって、「やる、やる」と言ってついた。アクションとかしんどいのが大好き、お転婆なもの、戦争ものとかが好きだった。
黒澤明、浦山桐郎、木下惠介、降旗康男、内田吐夢…。スゴい人なんだよ内田監督は。最初から演技指導、止まらないんだよ。昼ごろになっても撮影がはじまらない。
―― 撮影日数はどのくらいだったんですか。
俺がついていた人は、日数かける人が多かった。だいたい60日。60日というと、実数だいたい3ヶ月。
成瀬巳喜男さんも好きだったな。豊田四郎さんともやった。谷口千吉、岡本喜八、岡本さんも面白かった。御殿場ロケ20日とかね。そうすると、お金かからないんだよね。給料貰ったら全部パーッと使えた。安かったけどロケーション手当もつくんだよ。ローケーションは御の字だよ、飯つきだし、独身はね。だから、給料は派手に使ちゃうんだよ、六本木行こう、下北沢行こうって。払いきれなくなってね、ちょっと払って後はつけ。どうしてもなかったら、会計に、昔は制作じゃなくて会計って言って、作品終るまでって金借りて…。社員だから、月給で、残業代もついた。残業代がいっぱいついたのは、市川さんとやるようになった時だね。
―― 結構、羽振りが良かったんですね。
その分寝ないで働いていた。それと、映画会社、東宝が儲かっていたから。劇場満杯で、小屋(劇場)に金が集まってきた。あと10年早かったら、もっとすごかった。