『市川監督と私』 大橋鉄矢
2012/2/1
大橋鉄矢:1927年生まれ。アオイスタジオ等で映画録音の仕事にたずさわる。「東京オリンピック」で市川崑と出会い、その後、2006年「犬神家の一族」まで、数多くの市川作品の録音または調音を担当。「細雪」などでは、"大川新之助"という市川崑との共同作曲者ネームで映画にクレジットされている。
'09年、文化庁映画賞受賞。
「1964年10月10日午後2時、選手団、入場行進開始であります……先頭はオリンピック発祥の地、ギリシャ、青地に白の十字も鮮やかな国旗を先頭に、堂々の入場であります……」
映画『東京オリンピック』冒頭の実況アナウンスです。
市川崑監督の名前を一躍世界の名匠にまで高めた、記録映画『東京オリンピック』…………この映画のお陰で私は市川監督と仕事をさせて貰うようになったのですが、今考えると、人間の運命と云うものは本当に不思議だと思います。つい一月ほど前までは、市川監督のオリンピック映画の仕上げを担当するなどとは夢にも思っていなかったわけですから。
当時、私はアオイスタジオという録音スタジオに勤めていました。スタジオは赤坂の溜池、丁度、総理大臣官邸の直ぐ南側にありましたが、オリンピックに向け、高速道路の建設が急ピッチで進んでいて、スタジオがその予定地になっているからと立ち退きを迫られていました。移転先が現在の麻布十番に決まって、新社屋とスタジオが完成して引っ越しが済んだのがオリンピック前年(1963年)の12月でした。アオイがオリンピック映画の仕上げスタジオに決まったのもこの年に入ってからだったと思います。
この記録映画の製作はニュース映画の制作会社7社で作った「社団法人・東京オリンピック映画協会」が担当することになっていて、競技の撮影もニュース各社のキャメラマン達が主力になっていたので、録音のメンバーもニュースの連中がやるんだろうと思っていました。アオイはスタジオと編集室を提供するだけだが、実際の作業が始まれば大騒ぎになるなあ等と呑気な事を考えていました。
そんなある日、副社長に呼ばれた私は、突然こんなお達しを受けました。
『オリンピックのミキサーをやってくれ、
これは国家事業だ、金に糸目は付けん』
エッと吃驚しましたが、こんな大仕事、しかも監督は市川崑さん、絶好のチャンスだ!!……しかし、ニュース映画の連中も一緒にやるんでしょうか?……答えは『いや、録音に関してはアオイが一切を引き受けた、他に誰も関係する者はいない』
副社長の声には決意が伺えました。
分かりました、全力でやります。……実は胸がドキドキして、かなり興奮したような記憶があります。
当時、市川監督といえば、"映画界の鬼才"と云われて、数多くの名作劇映画を監督して、黒澤明監督と並ぶ日本を代表する映画監督の一人でした。
こうして、市川監督と仕事をするチャンスに恵まれたのです。