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『生まれ変わっても映画監督 市川崑』 藤井浩明page6 ―― 市川監督が大映を離れた後、しばらく一緒に仕事をされていなくて、「ビルマの竪琴」でまた組みますね。
いや、その前にね、やっていなくてもね随分手伝いましたよ。例えば、「股旅」だって、僕はやっていないけれども資料やなんかはよく持って行きました。 ―― メンバーは市川監督が決めたんですか。 ええ。大映はなくなっちゃっているから、増村もフリーだし、僕もフリーだから。それで、プロダクションというよりもね、映画研究所みたいな名前にしようと。 ―― 増村監督は、市川監督の助監督についていますが、他の助監督とは違う付き合いをしていたんですか。 それはやっぱりね、市川さんは、増村さんに注目していましたよね。他の人が才能がなかったとは言わないけれども、やっぱり、増村ってのは優れていたし。一年か二年大映にいて、ローマに留学しているんですよ。あの時、チネチッタが世界から留学生を呼んで、滞在費から授業料から全部向こうが持ってくれた。だから、ちょっと違うんですよ、増村さんは。それで、市川さんてのは、そういう才能があるやつをつかまえるのが上手いから、どうせ助監督だったらいいやつをピックアップする。 ちょっとタイプは違いますけどね、市川さんと増村さんってのは。 ―― 研究所が実現していたら、また違う流れがあったのかも知れませんね。藤井さんが作られた行動社とは、別のお話ですね。
あれは、大映が潰れてすぐ、ATGを一本やろうということになったんですよ。それまでATGは、世界の名作をやる映画館のチェーンだったんだけれども、一千万映画といって、松竹の大島渚だとか、大映の増村だとか、新人の日本映画を作るというのでね。 ―― それが、行動社なんですか。 ええ。 ―― それから、藤井さんは、東宝でおやりになりますね。市川監督も、東宝が拠点になっていきますが。 東宝の撮影所でも良く会いましたよ。僕が東宝で契約して、東京映画やって、東宝映画へ行って、10年近くやりましたかね。それから、「将軍」(1980 パラマウント・ピクチャー作品)っていうアメリカ映画を東宝の撮影所でやっていたんですよ。それが終ってから、まったくフリーで。 ―― そしてまた、「ビルマの竪琴」で、市川監督と組まれるわけですね。 ええ。「細雪」の時も「おはん」の時も、僕は撮影所にいましたからね。それで、「おはん」をやってらした頃に、次に「ビルマ」をやろうということになって。あれは、東宝のスタッフもいるし、僕がそれまでに、フリーになってから組んでいたスタッフも一緒にやっていたんですよ。それから「鹿鳴館」ですね。それで、「映画女優」やって、「竹取物語」やって、「つる―鶴―」と。 |
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